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雪ヶ谷八幡神社の周辺

東京都内の環状山手線五反田駅より東急池上線(昭和3年6月全線開通)にておよそ12分、石川台駅で下りて駅前商店街を2分ほど歩くと、小高いところに緑に包まれたお社がある。ここが雪ヶ谷八幡神社である。御神城のある丘に対して西がわに日下山(しげやま)という丘がある。この二つの丘にはさまれた谷を中心に雪ヶ谷の里は栄えてきた。
「昔、日下山の下では冬になると天然氷を作り、横穴を掘って夏まで保存し、出荷したものだ。」と古老は語っている。冬は谷が雪でおおわれて美しい眺めであったという。雪ヶ谷の名もそこから来たのであろう。

明治後期

当時の雪ヶ谷には「七ズシ」といって七つのズシ(小字)があった。今でもバス停で残っている”日下山(しげやま)”これは清明学園から雪ヶ谷大塚駅に至る一帯だ。”山谷”は石川台駅前や八幡神社辺りの丘陵地。荏原病院の付近は"原"。その南方が”下ノ谷戸”。円長寺近辺が”市ヶ谷方”。”並木”が永久保稲荷のあたり。それに今も町名で残っている”石川”もあった。
雪谷中学校の周辺の呑川沿いが、”谷中耕地”、嶺町との境でムジナが多く棲んでいて”貉窪(むじなくぼ)”と当時の人は呼んでいた。
またこの他に通称「川端(かわばた)」(現東雪ヶ谷5丁目37番地あたり)「御用場(ごえんば)」(現東雪ヶ谷3丁目23番地あたり)もあった。

宮司北川家は八王子城主北条氏輝を父に今川義元の女を母にして出生した。北川家一代は天正18年(1590)小田原城が落城したとき流浪して多摩川づたいに下り沼部村に土着して徳川時代には名主になっている。明治政府の神仏分離令により兵左衛門の長男玄藩は神職につき弟の和三は戸長になり上沼部石川両村の調布村長になった、玄藩守光貞の子忠一とその子和夫さらに和夫の子正保と四代にわたって宮司をつとめている。

地付きの人々は雪ヶ谷村から雪ヶ谷町になった当時、七名(しちみょう)【直井(なおい)、直井(なおえ)、田中、飯田、宮田、永久保、国府方】で所帯数60戸程であったが、現在は1万1千を越える町に発展している。
「氏子区域」は、旧雪ヶ谷町全域で住居表示は東雪ヶ谷、南雪ヶ谷、南千束の一部、石川町の一部となり、希望ヶ丘、南雪、東雪、東中、石川台、笹丸の六ヶ町である。

境内は、「2月」の梅の花が終わると、「3月」には彼岸桜、「4月」に吉野桜と枝垂れ桜が、そして八重桜、「5月」にはつつじ、さつきが咲き当分のあいだ花見を楽しむ参詣者で賑わう。

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